他人の名言寄せ集めアソート

なかなか意味のわからないタイトルですね。アソートは「盛り合わせの」という意味。まあ簡単に言うといつも他人の名言ばかり言ってる人です。居ませんか?周りにそんな人。周りに居なくともTwitterとか見てるとしょっちゅうそんな人を見かけますよね。

まあタイトルの説明したところでこう言う人をみなさんはどう思いますか?私は批判の立場を取ります。何故ならば本当にただのロボットさんだから。他人の名言を言ってるけれど、では貴方は何なのか。存在の意義はあるのか?AIも検索エンジンも発達した今そんな名言なんて調べれば1秒でわかる。それを考慮した時、ただのロボット、九官鳥には意味はない。

君の、私の脳は生み出す為にあるのだ。覚えて吐き出すためのものではない。脳の発達を下らないことに使うべきではない。

そう私は思うのだ。

ただ、こんな戯言言っても誰も聞かないのですね。我々は憲法で規定された発言権がある。また、名言はスピーチ,演説,著書内であったものが今はTwitter、ブログなどから誰でも簡単に生み出す側につくことができた。しかし、発言権というものは本質的にはないも同義だ。Twitterで顔も声も今までの生い立ち、成果もわからぬ者の言葉なんぞ、素晴らしくとも誰も耳を傾けない。だから、権力者だった者の声でないと皆傾けないのだ。

悲しきことこの上ない。ただそれは、日本人ないしは人間には仕方ないことでどうしても変われぬことなのだ。

雰囲気を食う

昨日は土用の丑の日でしたね。鰻の高騰により断念、乃至は手頃に済ませた方もいるのではないでしょうか。

私は鰻重食べましたよ。大変美味しかったです。従姉妹の中学生は騒ぎながら残してましたけど(それで死ぬほど不快な思いをしたのですが)。実は私以前も鰻重を頂きまして、その時は重箱に入っていたのですが、今回は昨今のコロナ情勢により発泡スチロール?の様な器に入れられてましたね。

まあ鰻屋さんも大変ですし、仕方ないとは思いますが何だかなあと些かの違和感に駆られる。タイトルにもある様に鰻は味の他に雰囲気を食ってるのだろうと感じましたね。味としてももちろん美味しいですがやはりあの綺麗で高級感を醸し出している重箱を、土用の丑の日という伝統を思いながら食う。これが旨いのじゃないでしょうか。

今回は高級でのお話でしたが逆もまた然りですよ。あのワイワイ騒ぐ夏祭りにフランス料理で出てくる様な荘重なお皿は似つかわしくないのです。

昨今は何でも有用性のみを重視してきて息苦しさをも感じますが過ぎ去る季節を埋めて過ごすような事はせず、風流を楽しみ、伝統を楽しみ、ゆっくりと楽しみながら過ごしたいものです。粋な人に、風流人に、私はなりたいのです。

睡眠への恐怖

寝ることが怖い。タイトルにもありますが最近は寝るのが怖いです。

別に病気であるとか、明日遅刻しそうだからとか、寝たら何かが起こるというわけではありませんが、今日を充実して過ごせなかったこと、明日もまた自堕落に過ごしてしまうのかという自分への嫌悪感が募りその結果、眠りたくないという気が起こります。

充実、と言っても私の本業は学生なのでお勉強なのですが、全然しておらず、では成績が良いのかと言ったらそう芳しいわけでもなく。その中で勉強しなくてはいけないという焦燥感に駆られながらも勉学に励むこともせず、時間の空費する事を認識する度にやり場のないこの憤懣を自分のせいにするのです。明日へ明日へとやらなかった癖にやると思い込んでいる自分がまた尚腹立たしい。夏休みにやろうと思っている自分もである。やればいい話を、やらずに、気分を害する。

人間寝なければならぬ。しかし私には針が上から下へ、下から上へと刻んでいるのが耐えられぬのである。現在は時計の頂点を回り、吾が気分のように落ちて行く一時である。このまま惰眠を耽り、朝となりて、また堕ちる。人として堕ちる。気分の悪いこと千万であることよ。

文具店と私の気持ち

定期考査も終わったということで本日はお休みです。前回の投稿を見たのですが文章が堅苦しすぎましたね。ごめんなさい。今回は前回よりはラフな口調で書き進めれば良いと思ってます。

さて、今日の休みは切れたノートを補充しようと近所の文具店でお買い物をしてきました。

やはり文具店に限らず近所にある個人経営店と言うのは良いですね。本当に外から来る人はいない地域の中で閉鎖された空間。店内は狭くいつも薄暗い。あと10分程度時間を費やしたら東急ハンズがあって更に選択肢が広がるのにも関わらずそこで買う必要はない。そう頭では分かっているのですがやはり心は許しませんね。愛着と云うか、何かが好きなんでしょうね。10年もの付き合いなのにまだ名前すら知らない店主でも、明るく輝いてる所よりも、私の憂鬱と学習への意欲を閉じ込めたあの独特な雰囲気を愉しみたいと心が感じているのでしょう。

思えば私は質素なものが好きであると、そう自覚しています。ライトイエローやエメラルドグリーンのような煌びやかなものでなくただ原色のような青であったり黄であったり赤であったり。そう云う落ち着いたものが好きで、最近の受け入れられ易いカラフルな教科書というのはどこか心に嫌悪感があって、白と黒でただ知識を写し出すあの教科書が私には心として落ち着き、学んでいるという気持ちを起こさせます。

そんな余韻に浸りつつ本稿を締めましょうか。読了ありがとうございました。

εの読み方について

タイトルにもあるようにここにはギリシア文字のεの読み方について記そうと思う。

そもそもこの文字、ε。読者諸君は如何程馴染みがあるだろうか。ギリシア語学習者や言語として文字をを好む方々はダイレクトなものであるが、ある程度踏み込んだ数学徒はε-δ論法等で大きく馴染みがあるだろう。それ以外にも他の学問等でお世話になっている者も多いと感じる。

さて、このように深く馴染みがあるこの文字について諸君らはどうでも良いものとして思っているのだろうか。この人類の学問に大きく発展してきたと言っても過言ではない文字を唯の文字として認識するのか。否、感謝すべきであ

る。そして、感謝するには先ず知らねばならない。

こう長く気持ち悪い文章を記したところで、本稿を作成している理由を諸君にお教えしよう。私は言語学が好きにも関わらず本職は理系で(本職とは言っても高校生であるが)、能く数学の本やブログを読むのだが、それにしても数学者はεを「イプシロン」と読んで、しばしば私を落胆させる。存じている者も多いとは思うがイプシロンというのはυを表すのであって、断じてεを表すのではない。εは「エプシロン」であって、イではないのだ。


と、ここで本稿で言いたいことは全て終了したので幾許の弁解をさせていただきたい。

先述した通り私は言語学も少々嗜むのだが、今のように何かとミスなどを見つけては批判したいわけではない。心が幼い時にら抜き言葉を指摘したのであるが、現在はナンセンスなものと考えている。私は日本語には日本語の発音があって、英語には英語の発音があってと思っている。だから私はハンバーグをハァンバーグと言わないことについても特になにも思わないし、逆に寿司をアメリカ人がスゥシィと言っていたとしても日本が好きなんだなあと思うだけである。

しかし最近は、その様なことに噛みついてくる輩が多い印象を受ける。例えばド・モアブルの定理(分からぬものはこのブログ内では然程関係ないものであるから、知りたければ各々で調べてほしい)の正しい発音はド・モワブルであるという極めてどうでも良いことを言うものだったり。私としては、モアブルであろうがモワブルであろうがモーブルであろうが認識できればそれで良くて、恐らく音韻論的にも良いだろう。私は音韻論については見識が浅いので確証は持てぬが。

兎に角、大切なことは発音ではなく国語である。国語を大切にしないでこんなどうでも良いことに噛み付くのは唯の愚者としか、私の目には映らない。これは発音のことではなく、文法や語彙についてもそう言えよう。

私も含めて一般的な者はある程度使えれば、意味はあまり分からなくてもまあいいかの精神が多いのではないか。仕方ないと言えば仕方ないのであるが、先述した似非国語学者がいる以上、私は悲しみを覚えるのだ。 皆も大事にすべきことは、目の前にあるのではないか。そう生活していただきたい。 駄文のご愛読に感謝を表して本稿を締める。 令和四年文月参日